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2025.01.06

奈良柳生CC創業者遠山利三の断片史


 

日本史に興味を持つ孫がフランスから一時帰国し、箕面GC、奈良柳生CCの創業者遠山利三について尋ねてきました。創業者遠山利三は、昭和34年に箕面GC、平成08年に奈良柳生CCを開設し、平成29年9月に92歳の長寿を全うし逝去しました。箕面GCが65周年、奈良柳生CCが30周年を迎えたことを区切りに、クラブ史の一環として遠山利三の断片史を記させて頂きます。

遠山の始祖は美濃国恵那郡遠山荘、岩村城主遠山左衛門尉景朝で、岩村、明知、苗木の遠山三頭のなかでの明知城主遠山として、一時は武田信玄軍に城を奪われたものの、関ケ原合戦で功を成し、その後徳川家康に従い、明知城の廃城後も、6,700石の譜代旗本として12代に亘って幕府に奉公しました。分家の遠山景元は遠山金四郎「金さん」として知られています。偶々ですが、令和6年12月25日にNHKで次のニュース報道がありました。

 

NHKニュース12月25日 19時21分恵那・明知城 「関ヶ原」で城取り戻した後 御殿建築か (映像付き)

戦国時代から江戸時代にかけて東濃地方を治めた国衆の一つ、明知遠山家の居城だった恵那市の明知城は関ヶ原の合戦のあと、城を取り戻した明知遠山家が御殿を築いて居住していたとみられることが恵那市の調査でわかりました。恵那市にある山城の明知城は江戸時代の町奉行、遠山金四郎の祖先にあたる明知遠山家が作ったと伝わります。戦国時代に武田家に攻められて一度は落城するものの、関ヶ原の合戦のあと、東軍についた功績で再び明知遠山家のものとなったとされています。恵那市では国の史跡指定を目指して今年度から4年計画で城跡の本丸付近などの発掘調査を行っています。初年度の調査では17世紀初頭のものとみられる礎石が複数見つかり、恵那市では明知遠山家が城を取り戻したあと、山の上に御殿を作って住んでいたとみられるとしています。
このほか、織部焼や志野焼など約350点の遺物が見つかり居住スペースがふもとに移ったあとも山の上は祭しの場として活用していたとみられるということです。恵那市教育委員会文化課の塚本恵伍主査は「今回の調査で明知城がどのような変遷を経てきたかがはっきりわかった。さらに調査を進めて、国の史跡指定を目指したい」と話しています。恵那市では、1月11日に一般の人を対象にした現地説明会を開くことにしています。

 

 

景朝から数えて23代目の遠山景京が寛政元年に尾張国津島にて、名を孝次郎と改め帰農、米穀問屋を始め、以後、日本における繊維産業の勃興とともに、明治10年に遠山商店を創立、同社は昭和4年には毛糸輸入量日本全国一位の業績を誇りました。
二代孝三は名古屋青年商工会議所の創立、津島紡績、津島銀行などの創設に関与しました。二代目遠山孝三は7名の子宝に恵まれ、本家の繊維関係以外にも姻戚関係から、自動車販売、大理石製造販売、ガス器具製造販売、大型店舗賃貸、ゴルフ練習場/自動車教習所などを経営しており、最後7番目の子で三男が箕面ゴルフ倶楽部の創業者遠山利三でした。
遠山利三は昭和2年10月生まれ。東大経済学部を卒業し、遠山産業の大阪支店長として米国に出張し、食事に接待されたのがゴルフ場でした。ゴルフ倶楽部の地域社会での役割を肌で感じ、大戦中もクラブ競技が途絶えていなかったことに衝撃をうけ、自らもゴルフ場事業を目指すこととしました。
帰国して昭和33年に茨木CCに入会、昭和34年には上田治設計士の知己を得て、茨木CCの背後の五月山に注目して英国風ゴルフ場の建設を依頼。昭和35年に藤田組施工にて箕面GCを開設。大学同窓の堤清二氏の活躍に刺激を受け、糸川英夫ロケット博士の夢であるヴィーヴル哲学(スポーツと文化の融合)に傾倒し、事業多角化を図りました。
遠山利三は、箕面GC眼下の池田市伏尾に広大な丘陵があることに着目し、箕面GCの開設にも協力頂いた、遠山産業の主力取引先である東洋紡績伊東光太郎常務に働きかけ伏尾ゴルフ倶楽部の開発を手掛け藤田組と段取りし昭和36年当時で1億円の資金を投入しました。しかし名古屋の本家の異論もあり役員であった山地鴻が東洋紡績の支援継続の下に事業継承し昭和37年に開設しました。
また遠山利三は、東大の関西同窓会で、後輩の北山洋一が石原慎太郎のヨットコンテッサのクルーであったことから、石原氏から伊勢志摩に「関西と関東の中間にあるオンディーヌの棲むような素晴らしい入江」があるので、マリーナを建設して欲しいとの要望があり、これぞ糸川哲学であるスポーツと文化の融合事業だと共鳴し昭和47年にマリーナ事業に乗り出しました。
しかし、マリーナ事業は、海が国有財産であるうえ、海面/海中/海底にそれぞれの漁業権が絡む難しい権利関係が複層していることから、遠山利三は預託金の返還に困難が生じることもありうるゆえ、昭和47年にクラブ解散時返還という「永久債会員権」制度で会員を募集しました。課税庁も募集金額が数億円程度の少額ゆえ課税しないとの判断となり、我が国の永久債会員権の発祥とされることとなりました。
更に遠山利三は、日本にやがて食糧危機が訪れるとの認識から、日本に近くて時差もないオーストラリアに着目、昭和52年に仲間を募って広大な養牛牧場を4ヶ所取得、リゾートを楽しみながら我が国の食料問題への貢献を成せるのではとの夢の実現を目指しました。
昭和54年11月、長女遠山彩子が三井物産イタリア社員であった吉田隆重と結婚。石原慎太郎と吉田隆重が共に一橋大法学部の同窓であったこともあり、石原慎太郎・典子夫妻が媒酌人となり、その後にあってもテニス場、奈良柳生CCの開設などにも側面支援がありました。
昭和60年に箕面GCが30年を迎え、「企業の寿命30年説」が多くの経済誌などで論説されるなかで遠山利三は奈良県にて第二ゴルフ場を計画しました。昭和42年に奈良万葉CCを完成にまで漕ぎつけましたが、工事業者の浅沼組との間で個人保証を求められるなどの事情から撤退をした経緯もあり、遠山利三にとっては捲土重来でした。
奈良県は、文化学術研究都市ゆえ大規模開発の許可取得が厳格で、千三百年の歴史を紡ぐ地域体質もあり地上げが難渋するなか、その途上の平成元年にバブル経済が襲い、平成4年に着工に至りましたがその後も幾度も荒波に遭遇し、ようやく平成8年にオープンすることが出来ました。
津島銀行以来の東海銀行との長きに亘る取引があったことから温かいご理解を頂き、平成13年11月には箕面GC、奈良柳生CCのゴルフ場事業のみの再生に集中するとの条件で民事再生法の適用申請を行うことが許されて開始決定を受けることができ、爾来24年が無事に経過しました。
奈良柳生CCの会員権については、平成10年10月にバーゼル銀行監督委員会が永久劣後債の発行を容認したとの情報を得て平成12年に分割会員権を永久債とし、預託金を負債勘定から資本準備金勘定として、減価償却費に対応する純資産減少への対応ができました。
遠山利三が昭和30年に米国で学んだ「会員活性率、会員置換率を維持することがクラブ活動の本質。ゴルファーが入会を欲するクラブ環境の整備がゴルフ場経営。」との経営理念に基づき、これからも来場者数18ホール当り32,000人にて余裕のあるクラブ運営体制を守り、健全なクラブ史を紡げるよう努力いたします。

 

代表理事 遠山隆重